私は自分のことを
とても合理的な人間だと考えている。
道理に合わないことに
耐えられない性分だからである。
たとえば明らかに間違っている
上司やクライアントのクレーム。
こういうものには
きちんと向き合わないと気が済まない。
それはちょっとおかしいのではないでしょうか?
と言い返したことが何度もある。
明らかに相手の不備が原因だったからである。
もちろん感情的に怒鳴ったりはしない。
理路整然と「おかしいですよ」と言っただけ。
だが結果的に上司やクライアントに疎まれ、
評価や取引に悪影響を与えることになった。
そんな私は果たして合理的なのだろうか。
辞書で合理的という言葉を調べると
こう書いてある。
【1道理や論理にかなっているさま】。
やはり私は合理的なのだ。
だがそこにはこうも書いてある。
【2むだなく能率的であるさま】。
上司やクライアントとの関係を考えると、
たとえ相手に非があっても
丸く収めることが能率的かもしれない。
だとすれば私は合理的ではないのか。
ちなみに1の解説にはこういう注釈がついている
【合理的な自然界の法則】。
2の注釈は【合理的な処置】と書かれている。
自然界の法則と合理的な処置。
それはどう考えても相反するものではないのか。
目の前の損得を超えた大きな道理で判断せよ。それが1。
効率よく合理的な処置をせよ。それが2。
どう考えても2は道理には合わない。
つまり合理的という言葉そのものが
ダブルスタンダードなのである。
多くの人は2の意味で合理的という言葉を使う。
どうりで話が合わないはずだ。
長々と解説してきたが
私は辞書にクレームをつけたいわけではない。
辞書はただ現実の使われ方を記しているに過ぎない。
重要なのは合理的という言葉を
どう捉えるべきなのかということ。
おそらく人間は、長きにわたって
1の解釈を大切にしてきたのだと思う。
だがそれでは上手くいかなくなった。
理にはかなっていても取引がなくなる。
評価が下がる。損をする。
生産性を重視した工業化の時代には
新たな解釈が必要だったのだ。
だがその時代も終わろうとしている。
効率と生産性だけでは、もはや
価値を生み出せない環境になっているからだ。
いま一度立ち返って
合理的という言葉の意味を吟味すべきだろう。
SDGsなどという標語を新たに掲げる必要などない。
要は道理にかなっているかどうかなのだ。
人間がねじ曲げた合理的の境目が、
また自然に帰ろうとしている。
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1件のコメントがあります
自然の摂理を活かした、理解した合理性ともう一方の場を収める合理性の認識や使い分け、確かに~と思いました。コラムの配信、ありがとうございます。