かのエジソンは「発明に必要なのは
99%の努力と1%の才能である」と言った。
どんなに素晴らしい発明も
99%の努力なくしては生まれない。
努力こそが何よりも大切なのだ。
と、多くの凡人はエジソンの言葉を理解した。
だが後日談としてエジソンは
この解釈は間違いだと指摘している。
「努力は大事。だがどんなに努力したところで1%の
才能がなければ意味がない」と言いたかったらしい。
才能なき人たちには、
これほど冷水を浴びせられる言葉はないだろう。
だがエジソンの見解は正しい。
人は才能ある分野でこそ努力すべきなのである。
ではそもそも才能とは何か。
努力とは何なのか。
じつはこの定義こそが成否を分ける分岐点なのである。
ビジネスシーンでそれを考えてみよう。
ビジネスにおける努力とはパクリである。
と私は定義している。
私はゼロから1を生み出すことを生業としているが、
正直に言えばその99%はパクリである。
既にある商品、既にある事業、既にある手法のパクリ。
言葉は悪いがパクリ自体は悪いことではない。
いやそもそもパクリなくして
価値の創造などあり得ないのである。
たとえばノーベル賞を取るような
数学者を思い浮かべてほしい。
もちろん彼らには常人に想像しがたい
才能があるのだろう。
だが彼らがやっていることも99%はパクリである。
数字をつくったのも、0を発見したのも、
ピタゴラスの定理を考えたのも、彼らではない。
そんなものを1から考えていては、とてもではないが
新しい理論の構築まではたどり着けない。
ビジネスにおいては99.9%パクリでいい。
どんなビジネスがあるのか。
どういう商品が売れるのか。
どのような手法で集客しているのか。
先人と他人の知恵と経験をパクりまくればいいのである。
もちろんパクるにもそれなりの時間と労力を要する。
それこそが努力なのである。
では才能とは何か。
それはパクリの中に0.1%のオリジナルがあること。
逆にいえばそれがすべてなのである。
たった0.1%のオリジナル。
だがエジソンが言う通り、
それが無きものにとって努力はムダなのである。
99.9%のパクリの先にある小さな閃き。
それこそが才能なのだ。
アートも数学もビジネスも同じである。
有名な作品の模写や、
デッサンの訓練なくして作品は生み出せない。
だが模写はどんなに上手くても模写でしかない。
100%のパクリは無価値なのである。
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