等身大の価値

金メダルをかじる市長。
女性蔑視発言を繰り返す偉いおじさんたち。
炎上するたびに彼らは同じことを繰り返す。

「発言が誤解されている」
「ことば足らずだった」「そういう意味で
言ったのではない」という正当化である。

自身は間違っていない。
発言の主旨にも問題はない。
ただ受け取る側が誤解しているだけ。
もちろん、そう受け取られる
発言をした自分にも責任はある。

それはことば足らずという責任であり、
誤解を生む発言だったという責任である。
すなわちコミュニケーションのギャップであって、
大袈裟に騒ぐようなことではない。

きっと彼らはこう思っているだろう。
変な時代になったものだ。
確かにちょっとしたミスはあったが、
こんなに騒ぐのはおかしいだろうと。

お笑い芸人の炎上も多くなった。
こんなことで叩かれるのか。
こんなことすら言えないのか。
もうエンタメは無理だ、
という嘆き声まで聞こえてくる。

どこまでが許されて、どこからがアウトなのか。
確かにその境目はどんどん
厳しくなっているように見える。
ユーモアなのかセクハラなのか。
愛情表現なのかパワハラなのか。

公の場には明確なルールもあるが、
問題はその土台となっている世間一般の価値観である。
多くの人がNOを突きつければ
メディアや企業は従わざるを得ない。
では求められているのは聖人君子のような人間なのか。

いや、そうではない。
ユーモアも毒舌も決して否定されているわけではない。
要は程度の問題なのだ。
許せる範囲かどうか。
それはとても感覚的なものだ。

あの発言は許せない。
あの行動は嫌悪感しかない。
こうなってしまったらもうお手上げ。
ではどういう発言や行動がその結果を招くのか。
最大の勘違いはここにある。

許せるか許せないか。
その境目を作っているのは発言や行動そのものではない。
そのような発言や態度を生み出した人間性。
そこが見透かされているのである。

本音と建前が切り分けられない。
どんなに取り繕ってもその本質がバレてしまう。
今はそういう時代なのだ。
それは言い換えるなら、
人間性そのものが価値を持つ時代でもある。

いい人であること。
善良な人間であること。
まともな倫理観を持っていること。
等身大の価値がそのまま社会的な価値に直結する。

お笑い芸人でさえも、
そこが視聴率に直結していることを
見落としてはならない。
経営者も政治家も、
見られているのは等身大の価値なのだ。

 

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1件のコメントがあります

  1. 以前(10年位前)から日下公人さんが、同じ趣旨のことを言っていました。人の直観力というか印象は素晴らしいものがありますが、逆に表にでる人やリーダーの立場にいる人は、繕えない時代になってきたと感じています。

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