多様性の時代だけに、性別はモメる材料になります。
前のオリンピックでアルジェリアの女性選手が金メダルを取ったとき、激しいバッシングが生じました。その選手が過去競技の性別適正検査で失格とされた過去があったからです。「女性でない者が女性競技に参加して、不正な勝利を得た」というわけです。
ただ、じつはその選手はトランスジェンダー等ではなく、生物的に女性でした。検査で失格となったのは、「性分化疾患(DSD)」という先天的な身体的特徴により、「女性ではない」と判断されたのです。
ややこしいといったら怒られそうですが、正直ややこしいです。
ただ、モメるのは性別だけではありません。
ある陸上競技ではオリンピック金メダルの記録を同時期開催のパラリンピックの金メダル記録が上回りました。もしそのパラアスリートがオリンピックに出られていたら、優勝していたのです。
オリンピックに出ていないのは、使用しているカーボンファイバー義足の科学的優位性に決着がついていないためです。
これらがスポーツでなぜモメるのかというと、競技では参加者間で性別や身体的条件という「公正さ」がそろえられている、ということがなによりも重要だからです。
というのが理由としては半分です。
正論なんですが、タテマエでもあります。
もし先の女性選手が凡百の能力だったら、そもそも炎上するでしょうか。
義足の選手が「参加することに意義がある」レベルであれば、オリンピックに出場できるか議論になるでしょうか。
そんなことはないでしょう。むしろ、身体的イレギュラーさやハンディキャップをこえてスポーツに取り組む姿を美化する向きすらあるかもしれません。
叩かれたり、参加を留保されたりする真の理由は「強いから」です。
スポーツにかぎらず、競争が存在する場では、弱い者、マイノリティはときに優遇されたり、保護の対象になったりします。
「がんばっていてえらいね」というわけです。
しかし、実際にその者が力をつけたり、それまでの勝者の地位を脅かすようになると様相が変わります。
皆がやさしい笑顔を引っこめ、表情が一変することになるのです。

















