コロナが終わってからこっち、リーマンたちの出勤回帰が進みました。
以前と比較したときにリモートの選択肢は残りましたが、一部の業種、職種を除いて、たいていの人が出勤メインであることにちがいありません。
とはいえ、私たちは一度は「できるだけリモートでやってみる」という巨大な社会実験を行いました。
そこで、通勤の非生産性、非効率性、無意味さを実感したはずです。ですが、通勤の日々に戻されたら元通りにすんなり受け入れてしまいました。
勤め先の指示だから、ルールだからというのがあるにせよ、もう通勤はゴメンだ、それなら仕事を変える、独立してやるというまでの人はきわめて少数派です。なぜでしょう?
それは、「必然」だからです。
「しかたない」ではなく「必然」です。
大都市圏ではだいたい、通勤は30分以内なら短い方、1時間以内までなら長くない扱いでしょう。その往復を毎日くりかえすのは、「しかたない」ではとうてい正当化できない浪費です。
また、効率的に動くだけの移動でルートは同じ、景色も同じ。オフの自由な移動とちがって楽しみも見つけづらい。
なぜそんな行為が10分で済ませられず、60分になるのか。
もし、この状態が仕事なら許容する人はいません。絶対にどうにかしなければならないと思うでしょう。
ですが、通勤は違います。
この駅でこの電車には「乗らなければならない」。
この角を「曲がらなければいけない」。
私たちは無意識にそう信じています。
どの交通機関にするか、どの道筋で歩くか。
いちばん無駄がない方法を、最初は合理性で決めたはずです。
しかし、そもそも家はそこでいいのか、勤め先がそこでいいのか、人生の少なくない時間を充てるにもかかわらず、最初に決められたあとにそれが見直されることは極めてまれです。
その結果、合計が30分でも120分でも240分でも、それは言い値で受け入れられています。
一度決められたことは強烈に体を縛ります。いつもの時間より10分早く家を出ることが困難です。5分の電車の遅れが許せません。満員の車内で見知らぬ人と押し寿司のようになっても我慢できます。
それはひとつひとつが単なる習慣的行動ではなく、実感以上の強制力をもった動作だからです。
私たちにとって、通勤とは「必然」の集合体なのです。

















