自由への束縛

完全なる自由は存在しない。
私たちはまず、この事実を受け入れるべきである。
たとえば日本社会では、日本社会のルールに縛られる。
税金を払わなくてはならないし、法律も守らなくてはならない。
では税金や法律という、縛りを無くしたらどうなるのか。

道路や信号は作れなくなり、警察は機能しなくなり、
交通網は麻痺し、犯罪は横行する。
そんな社会では誰も安心して生きていけない。
では、無人島ではどうだろう。
そこでは完全な自由は手に入るのか。
いや、手に入らない。

生きていくためには、水や食料を確保しなくてはならない。
安心して眠れる住居や、防寒のための衣類も必要だ。
それらを確保するためには、
自由に遊んでなどいられないだろう。
人は、水を飲まなければ1週間も生きられないし、
空気がなければ5分と生きていられない。
私たちは、生まれたその瞬間から、
束縛された不自由な存在なのである。

だが一方で、束縛が自由をもたらすことも、事実である。
赤信号で止まるという束縛が、
青信号では安心して進める、という自由をもたらす。
他人の物を奪えないという束縛が、
高価なものを身に付けて外出する、という自由をもたらす。
不自由と自由は、常に表裏一体なのである。

無人島での生活は、一見とても自由に思える。
だがそれは、とんでもない不自由と
引き換えにした自由なのである。
電気がない、風呂がない、
エアコンがない、インターネットがない。
そういう不自由に、私たちはもう、耐えられない。
社会による束縛と引き換えに、
より大きな自由を、私たちは得ているのだ。

ここで意識するべきことは、
恵まれた現代社会への感謝ではない。
不自由の種類を変えることによって、
自由の種類を変えているという事実だ。
人間が人間を縛ることによって、
自然環境ではあり得ない自由を、
私たちは手にしているのである。

自然環境に縛られるよりも、
人間社会に縛られた方が、ずっと快適である。
この事実をまず、受け入れなくてはならない
(人間社会の縛りから解放される、ということは、
自然の中に放り出されるということだ)。
では、人間社会の縛りに身を任せておけば、
それでいいのだろうか。
いや、それではまだ、不十分なのだ。

もっと快適になるために、もっと自由になるために、
私たちは縛られなくてはならない。
では、何に縛られればいいのか。
その答えは『自分』である。
自分で自分を縛る人だけが、
本当の自由を手にすることが出来る。
自分で自分を縛れない人は、
他人が作ったルールに縛られていくのである。

自分を縛るにはルールがある。
それは、より狭く自分を縛ること。
たとえば、会社に課せられた100%の目標ではなく、
自分で課した300%の目標で自分を縛る。
生活に必要な300万円という年収ではなく、
自分で課した2000万円の年収で自分を縛る。
縛ることによって行動は制限され、やるべき事は明確になる。
自由とは束縛されないことではない。
自分で自分を縛る人だけが、真の自由人になれるのである。


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