ひとことで営業と言ってもその中身は様々である。
ひたすら電話をかける営業もあれば、
決まった顧客を巡回する営業もある。
顧客に合わせて提案する営業もあるし、
決まった商材を売り続ける営業もある。
営業とは何をする仕事なのか。
その定義は人によって異なるが、「何かを売る仕事」
という括りに異を唱える人は少ないだろう。
電話し、訪問し、接客し、企画し、提案し、
最終的には何かを売る。
すべてのプロセスは売るために存在しているのだ。
「いや、私は違う」と主張する人もいるかもしれない。
だが顧客から見れば営業マンは
「何かを売ろうとする人」なのである。
名刺に営業という肩書きを
つけることの問題がここにある。
現代社会において顧客は営業されたくないのだ。
私は十年以上も前から営業死語説を唱えているのだが、
聞く耳を持たない経営者が多い。
「営業がなくなるわけがないだろう」
というのが彼らの言い分だ。
確かに「何かを売る」という仕事はなくならないだろう。
だが売ることは「売る側の目的」であって
「買う側の目的」ではない。
顧客が何かを買う目的はその前後にある。
たとえば手前にあるのは「気持ちの良い接客」や
「美味しい食事」だ。
それを楽しませてくれたお礼に金を払う。
あるいは買った後のライフスタイルの変化。
快適な日々や、羨望の眼差しを手に入れるために
顧客は金を払う。すなわち買うのである。
顧客にとって買うことはあくまで手段なのだ。
ここに大きな齟齬がある。
売ることが目的の人は顧客に嫌われてしまうのだ。
言葉の持つイメージは時代とともに変化する。
たとえばコンサルタント。
この肩書を自分につける人は
頭の良さをアピールしたい人だ。
私は知的である。
私は物知りである。
私は何かを教える立場である。
いわゆる先生と呼ばれたい人々。
これがいまの時代にはちょっと痛い。
なぜならその意図がバレてしまうからである。
「この人は知的だ」「先生と呼ぶに値する人だ」
と相手が思ってくれるのならいい。
だが現実は「知的だと思われたい人」
「先生と呼ばれたい人」という風にしか見えない。
もはやコンサルタントという肩書も死語なのである。
言葉に対するイメージは時代の変化を如実に表している。
つまりそこへの感度が業績に直結してしまうのだ。
肩書、商品名、代表者のあいさつ。
そこにどんな言葉を並べるのか。
言葉のチョイスによって経営者のセンスが見えてしまう。
尚、同日配信のメールマガジンでは、コラムと同じテーマで、より安田の人柄がにじみ出たエッセイ「ところで話は変わりますが…」と、
ミニコラム「本日の境目」を配信しています。安田佳生メールマガジンは、以下よりご登録ください。全て無料でご覧いただけます。