お金にならない私の価値

プロとアマチュアの境目。
ほとんどの人はそこにお金という線を引いている。
たとえばプロ野球選手とアマチュアの野球選手。
プロのミュージシャンとアマチュアのミュージシャン。
その決定的な違いはお金を稼げるかどうか。

野球や音楽で食っていけるのなら
それは立派なプロである。
食えないのであればアマチュアだ。
そんななものは単なる趣味に過ぎないと。
小説家も同じである。

じっさいに小説を書いていたとしても、その小説が
売れなければ、売れたお金で食べていけなければ、
小説家とは名乗れない。
いい小説かどうか、歴史に残る作品かどうか、
そんなことはどうでもいい。

売れたのかどうか。
それで食えているのかどうか。
それが全てなのである。
果たしてこれは本当に正しいのか。

確かにお金は重要である。
生きていくには欠かせないアイテムだ。
だがそれは本質なのだろうか。
たとえば儲かっている病院と、医療技術が優れた病院。
部下のやる気や能力を引き出す上司と、
会社の評価だけが高い上司。
どちらが本質かは明らかである。

本質的な価値はどこにあるのか、という視点。
お金や稼ぎになっているのかどうか、という視点。
このふたつはまったくの別物なのである。
だが多くの人はそれを混同している。
いや、お金にならないものには価値がないと
思い込んでいる。

その思い込みが自分の能力と価値を閉ざしてしまう。
大切なのは本質的な価値だ。
人の命を救う技術があること。
人の能力を伸ばすスキルがあること。
それは稼ぎとは無関係の本質的な価値なのである。

なぜか人によく相談される。
話すことですごくスッキリしてもらえる。
それは本質的な価値である。
だが多くの人はその価値を過小評価してしまう。

タイムカードを押し、
給料を受け取りながらやっている作業。
それが私の仕事なのだ、
社会的価値なのだと思い込んでいる。

お金を稼いでいる時間、お金に直結する作業、
お金になる能力。
それが私の価値であり、それ以外は大した価値ではない。
その先入観が人の能力と可能性を閉じ込めていく。

お金になる自分とお金にならない自分。
決してここに線を引いてはならない。
お金にならない自分の中には
大きな価値が眠っているのだ。

お金にはならないけれども人の役に立てる私。
ここにこそ人生の本質がある。
それがお金になるかどうかは全く別の問題だ。
別の問題は別の解き方をしなくてはならない。
それはまた後日。

 

この著者の他の記事を見る


尚、同日配信のメールマガジンでは、コラムと同じテーマで、より安田の人柄がにじみ出たエッセイ「ところで話は変わりますが…」と、
ミニコラム「本日の境目」を配信しています。安田佳生メールマガジンは、以下よりご登録ください。全て無料でご覧いただけます。
※今すぐ続きを読みたい方は、メールアドレスコラムタイトルをお送りください。
宛先:info●brand-farmers.jp (●を@にご変更ください。)

 

1件のコメントがあります

  1. 嫁さんの料理や家事洗濯他の無給の家内業務は、立派な価値があると思っています。

感想・著者への質問はこちらから