【コラムvol.53】
市民か消費者か。

「ハッテンボールを、投げる。」vol.53  執筆/伊藤英紀


私たちは、社会人か会社員か。市民か消費者か。

活字で読み手全般を対象として、「私たちは~」「私たち日本人は~」と書き出される文章がある。あのときの“私たち”とは何者なのか。

読み手をあらかじめ狭く限定した書籍でなければ、「社会の構成員たる私たちは~」であることが多いだろう。

しかしはたして、私たちは普段から自分たちのことを、社会の構成員としてどれほど意識しているのだろうか。という疑問が、このコラムのテーマです。

「社会人のくせに甘えるな」という紋切り型の言い方があるが、このときの“社会人”の意味合いはだいたい、「もう学生じゃないんだからさ」とか「働いている大人のくせに」といったニュアンスだ。

つまり、「社会人のくせに甘えるな」は、「働く大人のくせに」であり、「働く大人」の85%以上は「会社員」なのだから、『社会人=会社員』がおおよその定義のようである。

<member of society>というニュアンスは、きわめて微弱である。

では、「市民」はどうだろう。市民といえば、横浜市民とか千葉市民とかその人の居住地を伝えるさいに使われることが多く、「私たち市民は~」と自立した個人をあらわす言葉として使われることは滅多にない。

かつてベトナム反戦運動など政治的な意志をもつ連帯行動を、「市民活動」とか「市民運動」と呼んだことのカウンターからか、安心できる社会を守り育てる自立的個人を「市民」と呼ぶことに、人々はいつの日からか抵抗感をおぼえるようになった。

そのかわりに登場したのが、「消費者」という言葉だ。人々は「私たち消費者は~」という言い方であれば、なんの抵抗感もおぼえずに自分を重ねるのである。

生活者と呼ぶときも、家計のやりくりを想起させるという意味では、消費者に近い。

つまり、日本人の多くのとらえ方としては、『社会人とは会社員である』、『市民(個人)とは消費者である』という図式が、無意識ながら前提になっているのではないか。

いびつであり、偏向している、と思う。しかしこの傾向は、日本だけではないようである。世界中がグローバル経済圏に組みこまれる中で、世界単一市場の論理と自由貿易の価値観(米国と中国の激突もこの価値に基づく覇権争いだろう)の波に飲み込まれている。

世界の先進・中進諸国の人々は、経済的生き物として自分にふりかかる経済的影響に怯えて暮らしているのだ。

斜陽にある日本は特にその焦燥感から、経済的な生き物としての比重が高くなっているだろうから、『社会人とは会社員』『市民(個人)とは消費者』という図式が定着するのも、理屈として通っている。

極論すると、日本人とは、会社員であり消費者なのだ。

つまり私たちは、「社会を構成する一人」「安心して生きられる社会を守り育てる一人」として、“自分を呼称する言葉”を失くし、“考えて意見を表明する立場”を失くしてしまったのかもしれない。

感想・著者への質問はこちらから