「海外在住の日本人が、日本のここがダメだと語る」現象があります。
多くは芸能人や著名人によるもので、一定の成功を収めたのちに生活拠点を移してこのムーブは始まります。
意外なことにこれには長い伝統があり、さかのぼれば明治期、国からヨーロッパに派遣されたエリート層がやって以来、200年近い歴史があるそうです。ただ、当時の批判は日本が先進国に追いつくための真剣な意見でしたが、近年の「海外にひきかえ」は煽りのようなものです。公共のために啓蒙しようとする意志はなく、たいていは証明可能な裏付けがない、軽いエンタメにすぎません。
ですが、これがすべて嫌われているのかというと、一部にきちんと需要があります。
昨今「日本人は」などというと、主語が大きいと非難されます。
ただ言われた側にとって、この言い方だと「自分ごと」にはなりにくい心理的性質があるそうです。そのため、批判の直撃は食らわず、同時に耳に痛い言葉を冷静に聞ける自分というものを確認したいタイプの人にはむしろ安心感を与えます。
「言ってることは厳しいけど、一理あるな。そう思える自分はちょっと違うな」と、ひねった優越感が発生するのです。
一方、多数派は以下のように反応します。
「そんなことを言うなら、もう帰ってこなければいいのに」
「海外にひきかえ」への答えは、この言葉に集約されています。みんなそれぞれ価値観があり、文化が合わないなら仕方ない。だが出ていった先から元の場所をディスり、おまけにそれで稼ぐのはアンフェアではないのか。
これもごもっともです。
しかし、ここに「海外にひきかえ」の動機があります。
なぜ「なんだかんだ帰ってくる」のか。充実した日々に忙しく、日本で暮らしていたときの生きづらさなど忘れてしまう方が自然ではないか。現地のハイソサエティで交流しながら、ただの軽口として消化すれば済むのではないか。
一見そうみえますが、実態はそうではない、ということでしょう。
結論すれば、いつまでも海外との比較が語られるのは、そうして移住した日本人の多くが、現地では
「普通の人」
にすぎないからです。
生活に困らない資産があっても、日本では自分のことを皆が知っていても、異文化の中で一流の人として評価されることはべつの課題で、それは極めて困難です。暮らしは日本を卒業しても、日本を相手に日本人から稼ぐビジネスモデルは簡単には卒業できません。
高名な人物として認識され、ましてやお金を得るには、やっぱり日本に向かって語りつづける以外にはないのです。

















