東京上野に「夜のカフェテラス」が来た「大ゴッホ展」、大変に賑わっているそうです。
教科書にのっていた作品をナマで見られるという体験はそれほどまでに魅力的……でしょうか?
「夜のカフェテラス」を見るため、そのうちオランダに行かなきゃと思ってたけど来てラッキー、ってひと、そんなにはいないはずです。では、あの人の洪水はなぜ生まれるのでしょう。
正直なところ、みなさんがカッコつけて美術体験を気取っているだけなのでしょうか?
そして見終わったあと、ミュージアムショップでグッズを買いこむのは、観光の最終日のような、思い出を消費にしたただの娯楽なのでしょうか?
翌日、会った誰かにその体験を語るのは、不毛な雑談にすぎないのでしょうか?
これ、明確にそうではありません。
むしろ、文化の一部といえる行為なのです。
そもそも、「ふつうの人が展覧会に行く体験」に漂うちょっとした後ろめたさのようなもの、それはおそらく「本当のところはよくわからない」ということです。
描かれた背景がどうだ、歴史がどうだ、技術がどうだといったことを一切学習しておらず、その場に行って見た解説板をふんふんと読んでわかったようにふるまうのはたしかにちょっぴり気まずいです。
ですが、問題ありません。そういったことを完璧に理解して、実践した本当のプロが「見る側」だったことはかつてないのです。
画商などの業務上のプロはいますが、いま現存している美術を支えてきたのは主に昔の貴族だったり、権力者だったり、とびぬけた金持ちでした。そういった上流階級のオーダーによって作品は作られ、評価もまた、上流階級の中で維持されてきました。
もしある作品が数十年、数百年と高い評価がつづいたとき、それは「人気」を超えたものに変わっていきます。
「文化」です。
文化は現在にまで受け継がれ、たとえばゴッホ展として私たちの前に現れます。ただ、「本当のところはよくわからない」と、私たちは不安を持っています。
それを美術館のすてきな雰囲気や、人気があることや、あえて時間とお金をかけることや、いろんなものが脇から支えます。
とくに、「教科書で見た」くらいの、ちょっとだけでも知っていることは大いに助けになります。SNSで話題になってごった返してしまう現象の火種でもありますが、実際に足を運ばせるための強力な追い風になります。
こうして最後に手元に残るもの、それが行ってよかった気がするという、「価値を感じた体験」です。
文化の正体は美術品ではありません。こうした「価値を感じる体験」が、世代をくりかえし、なんども再生産されることなのです。
ですので、私たちがよくわからんままに人ごみの「夜のカフェテラス」に突撃していく行動も、まあ、文化の末席に属する営みといえるのです。
















