これからの採用が学べる小説『HR』:連載第17回(SCENE: 027)【第3話】

HR  第3話『息子にラブレターを』執筆:ROU KODAMA

この小説について
広告業界のHR畑(求人事業)で勤務する若き営業マン村本。自分を「やり手」と信じて疑わない彼の葛藤と成長を描く連載小説です。突然言い渡される異動辞令、その行き先「HR特別室」で彼を迎えたのは、個性的過ぎるメンバーたちだった。彼はここで一体何に気付き、何を学ぶのか……。これまでの投稿はコチラをご覧ください。

 


 SCENE:027


 

 

病院の近くで拾ったタクシーで、環七通りを新川方面へと進む。緩やかな高架を登り、カーブしながら降りた先の信号を左折すると、下町感が一気に強くなった。

一言で言えば「住宅地」なのだろうが、低層のアパートや古びた平屋などの合間に、個人経営の畳店、院の字が旧字体で書かれた個人病院、軒先でコロッケを販売している肉屋などがある。生活に必要なものが、ゴチャッとひとまとめになっているような、そんな雰囲気だ。

中澤工業はそんな下町の一角にあった。

ケヤキ並木に沿った小砂利敷きの空き地。その片隅にサビの浮いた看板があり、「中澤工業」と社名がある。その下には「ジムショムコウ」と、どこか戦時中を思わせる独特のカタカナフォントで書かれた案内がある。運転手は勝手知ったる様子で砂利の空き地に車両を乗り入れると、ぐるりとUターンするようにして停車する。

「着いたよ」

「運転手さん、この会社知ってます?」

金を用意しながら室長が聞くが、運転席より工事現場が似合いそうな無愛想な運転手は、面倒くさそうに首を振った。

「こんな工場はいっぱいあるんでね。いちいち知っちゃないですわ」

領収書を受け取って、車外に出る。タクシーはすぐにいま来た道を戻っていった。きっと葛西駅に戻るのだろう。

自分の足で砂利敷きの地面に降りると、なんとなく息苦しさを覚えた。4月の割に最近は気温が高く、鋭い日光に焼かれた地面から、愚痴のような熱気がのぼってくる。地域柄なのか、工場というイメージからなのか、空気が埃っぽい気がして、俺は思わず口元に手をやって咳払いをする。

「いいねえ、この感じ。嫌いじゃないなあ」

俺と違い、室長は妙に嬉しそうな顔で言うと、歩き始める。

「ジムショムコウ」の横にある矢印の先、十五メートルほど奥まった場所に、中澤工業の社屋があった。カビのような黒い汚れが浮き出たブロック塀、その向こうに公民館のようにも見える小ぢんまりとした平屋建てが見えている。そしてそのさらに向こうに、アパート3階建てくらいの高さの四角い建物がある。こちらはそれなりの大きさだ。見た感じからすると、例の検査機器の部品を作る製造工場なのだろう。

病院で会った社長の話からすると、中澤工業は小規模な会社だ。中小企業というより、零細企業と言ったほうがいいかもしれない。確か社員が3人、事務員が2人、それからベトナムからの研修生たち。研修生の人数が不明だが、こういうケースの場合、多くても5人程度だろう。つまり社長を入れて10人程度の組織ということになる。

歩きにくい砂利敷きの空き地を進みながら、おいおい、と思う。営業三部じゃあるまいし、なぜ俺がこんな小さな、こんな寂れた雰囲気の会社に来なきゃならない。営業一部が担当するのは、社員が1000人2000人いるのが当たり前の大企業だ。1万人以上の組織も珍しくない。いったいこの案件で、室長はいくらの契約を取るつもりなのだろうか。組織規模で考えれば10万から20万がやっと、取れても1ヶ月掲載で50〜60万が限度だろう。

あるいは、と思う。見た目も含めて同期の島田に似た室長だ。もしかしたらあいつのように、しがない町工場から何百万もの契約を勝ち取るつもりなのかもしれない。

なんとなく横目で室長の顔を伺うが、何が嬉しいのか、子供のように目を輝かせながらキョロキョロしている。この人に営業などできるのだろうか。

俺の視線に気づいた室長が、「ん? どしたの」と聞いてくる。

「いや、なんか嬉しそうだなーと思って」

「いやね、僕、こういう雰囲気好きなんだよねえ。ピカピカのオフィスなんかより、ずっと味があると思わない?」

室長の言う通り、間近に見た事務所は確かに「味のある」ものだった。びっくりするくらい、くたびれている。戦争映画とかで見る住宅セットの方がいくらかモダンに見えるほどだ。古いせいか緑色っぽくなったガラス窓に、白く「中澤工業」の文字が吹き付けられている。ものものしい明朝体の文字。古い不動産屋みたいだと思う。なんとなく恐ろしいというか、ヤクザの事務所みたいな雰囲気がある。太陽光が反射して中の様子はよく見えないが、それがまた怖い。

そんな俺の考えを知ってか知らずか、「ごめんくださーい」と室長が元気に扉を開け、中に入っていく。

室長の後に続いて中に入ると、日光が遮られて視界が一気に暗くなった。一瞬、失明したように周囲が黒く塗りつぶされ、じんわりと少しずつ色を取り戻していく。

中はやはり、古い不動産屋のような雰囲気だった。年季の入った黒い革ソファ、ローテーブルの上にはレース編みの白いクロスがかけられ、これまためっきり見なくなったガラス製の灰皿がドンと置かれている。他、昔ながらの灰色デスクが10セットほどあるが、パソコンが置かれているのはそのうちの2つだけだった。まるで、昭和時代の映画の中にタイムスリップしたような感覚。

「あ、お客さん」

デスクの1つに座って何か書きものをしていた30代後半くらいの女性が顔を上げ、言った。それを聞いて、壁にかけられたカレンダーの前にいた背の低い女性ーーこちらは60代くらいーーが振り返り、「あら」と微笑むと、小走りにこちらにかけてくる。

「いらっしゃいませ。何かお約束でしたでしょうか」

微かに怪訝そうな表情を浮かべつつ、上品な口調で言う。ゆったりとして、柔らかな雰囲気だ。頭は白くなりかけて、着ている制服は古めかしいが、何十年もそのスタイルでやってきたというような説得力がある。

「突然すみません。わたくし、こういう者です」

室長が名刺を掲げるように差し出し、深々と頭を下げる。もはや見慣れた風景だ。普通の人間なら奇妙に思うだろうそんな行動に、その女性は一瞬不思議そうな顔をしたものの、すぐに愉快そうに笑った。

「あら、これはご丁寧に」

女性が名刺を受け取ると、室長は顔を上げ、続けた。

「先ほど、社長とお会いしてきました。我々、求人広告をやっておりまして」

求人、という言葉が出た時、女性の顔に安堵とも警戒とも取れる不思議な表情が浮かんだ。「ああ……求人の」そう言って室長の名刺に目を落とす。

「ええ、そうなんです。それで少し、現場の方を取材させていただけないかとやってきた次第で。あの……失礼ですが……」

「あら、ごめんなさい。私、中澤の妻です」

「ああ、やっぱり」

室長は大きく頷いて、それから口元に手を当てて、「あの……ご事情の方は?」と小声で聞く。

室長の言葉に、婦人はやはり、不思議な表情をしたまま、「ええ、わかっております」と頷く。悲しげな笑顔、とでも言えばいいだろうか。中澤婦人はちらりと後ろを振り向くようにして、それから首を傾げるようにして言った。

「ただ、私たちも困ってしまっていて……どうしたものかしらって、考えてはいるんですけど」

「ええ、ええ。そうでしょうなあ」

立ち話もなんですから、と婦人が応接スペースのソファを勧めてくれ、俺たちはそれに甘えた。お茶、入れますから。婦人は微笑んで頭を下げ、事務所の奥に下がっていく。

「キレイな事務所だなあ」

隣に座った室長がポツリと言い、俺は思わずその顔を覗き込む。キレイ? 何を言ってるんだ。見るからにくたびれたボロボロの事務所じゃないか。どこがキレイなんだ。

「ほら、物は年季が入っているが、ピカピカだ。毎日丁寧に掃除されてる証拠だよ」

「……」

そう言われてあらためて事務所内を見回すと、確かに古びた事務所には違いないが、室長の言う通り、不潔な感じはまったくない。むしろ、このソファにしろテーブルにしろ、受付のカウンターにしろ、整理整頓が行き届いており、清潔だ。

「古いこととキレイなことは、矛盾しない。逆に、新しいからと言ってキレイだとも限らない。人間も同じだけどね」

なんとなくいいことを言っているような気もするが、常に呑気な室長から言われてもピンとこない。

「はあ……そういうもんですかね」

感想・著者への質問はこちらから