泉一也の『日本人の取扱説明書』第110回「戒律のない国」

泉一也の『日本人の取扱説明書』第110回「戒律のない国」
著者:泉一也

このコラムについて

日本でビジネスを行う。それは「日本人相手に物やサービスを売る」という事。日本人を知らずして、この国でのビジネスは成功しません。知ってそうで、みんな知らない、日本人のこと。歴史を読み解き、科学を駆使し、日本人とは何か?を私、泉一也が解き明かします。

世界20カ国ぐらいを旅してきたが、日本と海外の街並みで違うところを一つ挙げよと言われたらすぐに思いつくのが「パチンコ屋」である。

都会にも地方にどこにでもパチンコ屋がドーンとある。夜になるとネオンにサーチライトにその存在感はでかくなり、寂れた地方にもなんと豪華なパチンコ屋が!という驚きすら持つ。

パチンコ屋というのは遊興施設であるがれっきとした公営ギャンブルである。つまり日本にはカジノが町中にあると言ってもいい。昔の言葉でいうと賭場である。ただそれが機械に向かっての賭場であるので、人同士の軋轢や喧嘩のない平和な賭場なのである。

そういう視点で見ると風俗街というのも日本では街中に普通にある。私が生まれ育った神戸の街は歩いて10分のところに関西屈指の大きな風俗街があったが、そこの近くには民家があり小学校もあった。米国のラスベガスとはえらい違いである。

賭場に遊郭に街の中に自然にあるというのは一体どういうことだろう。これは日本には戒律が根付かない証である。戒律というのは煩悩を抑えるための規則である。その規則を破ると宗教的な制裁があるのだが、そういった戒律がほとんどないのだ。

仏教も本来は戒律が厳しい宗教であったが、その仏教的戒律は日本仏教の祖である天台宗を開いた最澄さんが多くを緩和してしまった。これを『円戒の思想(戒律遵守の義務を緩和する思想)』というが、その方が日本人にあうからである。

企業ではここ10年ぐらいコンプライアンスという言葉がよく使われるようになったが、該当するいい日本語が見当たらないからこんな英語を使っているのだろう。日本ではコンプライアンスはあまりにも当たり前すぎて言葉にならなかったのだ。

戒律で縛るということは、戒律がないと暴走するということであり、暴走するということは自制ができないということである。日本はどんどん自制ができない状態になっているので、戒律で縛らざるを得なくなってきている。

コンプライアンスがなくてもいいようにするには?という問いがないまま突き進んでいくと「戒律の国」になってしまう。戒律の国になると、困るのは訴訟が増えてしまうことだ。戒律を破った、いや破ってないで言い争いが増えるということ。訴訟は時間もお金も心も多くを疲弊させていく。儲かるのは弁護士だけである。

戒律の国へと今はまっしぐらであるが、そうならないようにするには、中学校の校則を生徒自分たちで作らせることだろう。江戸時代であれば元服し大人になる年頃に、逆に自制ができないだろうと戒律を多く与えてきたのだ。これが日本を戒律の国に変えている一番の原因である。

中学生にもなれば自分たちで必要な校則を決めることができるだけの知力もコミュニケーション能力も備わっているはずなのに、戒律を与えてしまっている。自制が育つ一番大事な時期に、その育てるチャンスをも放棄しているのだ。

ここは最澄さんを見習い「円戒の思想」を中学校に導入すれば、日本流の教育が完成するはずである。

 

著者情報

泉 一也

(株)場活堂 代表取締役。

1973年、兵庫県神戸市生まれ。
京都大学工学部土木工学科卒業。

「現場と実践」 にこだわりを持ち、300社以上の企業コーチングの経験から生み出された、人、組織が潜在的に持つやる気と能力を引き出す実践理論に東洋哲学(儒教、禅)、心理学、コーチング、教育学などを加えて『場活』として提唱。特にクライアントの現場に、『ガチンコ精神』で深く入り込み、人と組織の潜在的な力を引き出しながら組織全体の風土を変化させ、業績向上に導くことにこだわる。
趣味は、国内外の変人を発掘し、図鑑にすること。

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