第176回「日本劣等改造論(8)」

このコラムについて

日本でビジネスを行う。それは「日本人相手に物やサービスを売る」という事。日本人を知らずして、この国でのビジネスは成功しません。知ってそうで、みんな知らない、日本人のこと。歴史を読み解き、科学を駆使し、日本人とは何か?を私、泉一也が解き明かします。

 ― “天賦の才”という特効薬(後編)―

秀才とは「優秀な才」。天才とは「天賦の才」。

優秀な才(秀才)とは評価と比較によって決まる。例えば、テストにおける点数は評価、そして比較は上位何位とか偏差値のこと。評価と比較をさらにわかりやすくしたのが勝敗である。勉強の先には合否があり、スポーツには勝敗による順位付けがある。そこに秀才が存在する。

よりたくさんの人がその勝敗に関わると、秀才の希少価値が生まれ、高く評価をされる。レアメタルが高価であるように。その代表格であるオリンピックは世界の秀才を決める大会といっていいだろう。「優秀」を獲得できるのはほんの一握りである。

ちなみにオリンピックの一競技である「近代五種」を知っているだろうか。ほとんど知られてないだろう。なぜなら日本では30人程度の競技人口だからだ。では、近代五種の金メダルと陸上競技の100m走の金メダルではどちらが「すごい!」となるだろう。当然100m走だろう。比較の世界では競技人口の多い方が、1位の価値が希少になるので価値が高いのだ。

日本では勉強における競技人口が多いのは、大学受験である。よって、入学した大学で人の優劣を見がちになる。さらにそこで優秀な成績を取ると秀才の称号が得られる。「東京大学首席卒」が秀才のイメージにぴったりくるだろ。評価と比較を勝ち上がった存在。そんな秀才が会社の同僚にいたら、その輝かしい経歴に自分の影が濃く映る。これが劣等感である。

では、天賦の才(天才)とは何か。評価と比較のない世界に存在する才。どんな世界か。それは大自然。自然界には評価と比較はない。

というと「弱肉強食」という勝ち負けがあるじゃないかとなりそうだが、これは勝敗ではない。なぜなら「どちらが強いか、優れているか?」を決めるために生き物たちが戦っているわけではない。子供の頃、カブトムシとクワガタムシ、どっちが強いねん!と無理やり戦わせたが、カブトもクワガタもどっちが強いかを決めようと戦ったわけではない、多分。

強いものが勝ち上がっているように見えているのは、人間の価値観(評価と比較)に当てはめたにすぎない。

天賦とは「大自然から与えられた」を表す。何のために与えられたのか。それは、多種多様なのに調和する状態を実現するため。多種多様は豊かさを表す。白黒でなくカラフルということ。多様な色をぐちゃっと混ぜると黒っぽくて汚い色になるが、多様な色が互いに活かし合うと虹のような美しさが生まれる。

つまり、多種多様なものがそれぞれの良さを活かし合うと「調和」という美しさが生まれるのだ。

たとえば、障がい者の方がいたとしよう。障がい者の方がいることで、その障がいをサポートする技術が生まれる。障がいも技術もそれぞれが天賦の才。障がい者がいることで世界に多様性が生まれ、豊かになるのである。障がいを持つ方とその仕事に従事する方の間ではたくさんの学びと喜びがある。病気や怪我になった時、治療してくれたドクターに感謝し、看病してくれた人の温かさに感動するのと同じである。

この逆が優生思想。遺伝的に優れた人間には子孫を残してもらい、逆に遺伝的に劣った人間には子孫を残させないようにして、人類全体を遺伝的に優秀(秀才)にしようとする思想である。これを採用したのがドイツのナチスであった。なんと彼らは「障がい者は社会的価値なし」と殺害したのだ。殺害された障がい者は20万人といわれている。この優生思想の枠にユダヤ人をはめ込み、ホロコーストが生まれるのだが、このナチスと日本は手を組むことになったのも、その頃の日本には少なくともそういった思想があったと思われる。本コラム173回で取り上げた「華族制度」からもその片鱗を伺える。

これは極端な例かもしれないが、「秀才」の裏にこういった闇があった歴史を忘れてはいけない。

そして障がい者と健常者というカテゴライズも、人間が少数と多数という比較のもと意図的に設定したものという前提を知っておきたい。空を飛べる人間が多数派だったら、飛べない人間はすべて障がい者なのだ。

天=大自然はいつも身近にあって、飛べる動物も飛べない動物も、泳げる動物も泳げない動物も、動ける動物も動けない植物も、そして雨や風や晴れといった天気でさえも、「違いを活かし合う関係」を人間に教えてくれる。この大自然のような豊かさと美しさを生み出す違いこそが「天才」である。

「うちの子は天才に違いない!」は全然間違っておらず、もっというと「皆が多種多様なる天才!」なのである。

 

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著者情報

泉 一也

(株)場活堂 代表取締役。

1973年、兵庫県神戸市生まれ。
京都大学工学部土木工学科卒業。

「現場と実践」 にこだわりを持ち、300社以上の企業コーチングの経験から生み出された、人、組織が潜在的に持つやる気と能力を引き出す実践理論に東洋哲学(儒教、禅)、心理学、コーチング、教育学などを加えて『場活』として提唱。特にクライアントの現場に、『ガチンコ精神』で深く入り込み、人と組織の潜在的な力を引き出しながら組織全体の風土を変化させ、業績向上に導くことにこだわる。
趣味は、国内外の変人を発掘し、図鑑にすること。

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