歪み、偏り、捻れ

歪んだ性格や、偏った考え、
捻れた心を良しとする人は、
あまりいないだろう。
裏表のない性格、バランスの取れた
思考、真っすぐな心。
そういう人間であって欲しいと
親は子に願うものだ。

だが現実はそんなに単純なものではない。
いい人がモテなかったり、
真っすぐな人が面白くなかったり、
バランスのいい人は仕事ができなかったり。
そういうことは往往にしてある。
そしてその反対のことが起こったりもする。

ちょっとワルい人がモテたり、
偏った人がお笑い芸人になったり、
捻れた発想がビジネスに繋がったり。
では、悪い人はモテるのか。
偏った人には価値があるのか。
捻れた発想はビジネスに繋がるのか。
いや、そうとは限らない。
そこがこのテーマの難しいところなのである。

ピサの斜塔は偏っている。
ガウディの建築は歪んでいる。
ドバイの高層ビルは捻れている。
偏り、歪み、捻れが個性となり、
人を惹きつける。
では偏ったビルを建てれば人は集まるのか。

答えはノーである。
偏りや歪みが人を惹きつけていることは確かだが、
それは価値の本質ではない。
たとえばピサの斜塔は偶然が生み出した偏りである。
意図的につくった瞬間にその価値は失われる。

ガウディがつくる歪みは美しいが、
すべての歪みが美しいわけではない。
ドバイの捻れたビルが象徴しているのは無駄だ。
無意味な加工を加えるほど有り余ったカネ。
そのイメージが強烈な求心力を作り上げている。
偶然、感性、無駄(カネ)という違いはあるものの、
そのベースにあるのは同じものだ。

それは既存の枠組みである。
常識無くして非常識は存在し得ない。
単なる変と価値のある変の違い。
それは変ではないものの存在なのである。
偏りのない建物。
使いやすい建物。
無駄のない建物。
それが前提となるベースである。

もしも自社ビルを建てるなら、
大多数の人はそちらを選ぶだろう。
変ではないこと、常識的であること。
これが人間社会の基準なのである。
基準となるベースがあって、
初めて歪みは価値を持つ。
偏った考えも、捻れた商品も、
ベースなくして成り立たないのである。

もしも歪みや偏りを仕事にしたいのなら、
ベースを理解することが不可欠である。
儲かる歪みと、儲からない歪み。
儲かる偏りと、儲からない偏り。
その決定的な違いは、
歪みや偏りのない
巨大なマーケットが対極にあること。
常識が大きいほど非常識の価値も大きくなる。

 


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