老害の本質と世代交代の意味

人間の平均寿命が200年になり、さらに300年になる未来が来る。これを聞いてどう思われるだろう。確かに長生きはすべての人の願望である。ただ生きるのではなく健康で長生きしたい。可能であれば仕事も続けていたい。お金のためではなく人の役に立つ存在でいたい。

友人や家族も長生きして、ずっと幸せに暮らしていきたい。そう願う気持ちはよく分かる。死を受け入れるのは簡単ではないし、平穏無事な人生はずっと続いて欲しいと思う。人間なら皆同じだろう。だが冷静に考えてみれば寿命が延びても不安はなくならない。いや、むしろ大きくなるかもしれない。

なぜなら死ぬことに変わりはないからである。死ぬことなど「これっぽっち」も考えず270歳まで生きた人が、果たして死を受け入れられるのだろうか。これだけ生きたのだから満足だと思えるだろうか。私にはそう思えない。むしろ生への執着がとてつもなく大きなものになっていそうだ。

平均寿命が300歳になったら400歳に伸ばしたい。500歳に伸ばしたい。そう思うのが人間である。キリがない。完璧な医療体制を確立すれば本来寿命は200年以上あるのだと主張する人もいる。だが100歳を超えた体が若者同然に動くとは到底思えない。老害人口が増えていくだけである。

老害とは車で事故を起こす老人のことだけではない。業界や政界のトップに居座り続ける老人のことだけでもない。「自分は老害ではない」と信じている老人はみな老害なのである。氷河期に恐竜が滅び哺乳類が生き残った大きな要因。それは当時の哺乳類の寿命の短かさにあると言われている。個体の寿命が短いということは世代交代が早いということ。すなわち進化の速度が速いのである。だから新しい環境にもどんどん適応していける。

老いた人間はこう考える。長く生きたもの故の価値があるのだと。たくさんの知識がある。知恵もある。人脈もある。だが現代社会においてそれらは昔ほど意味を持たない。情報も知恵も人との繋がりもネット社会に溢れているから。日々常識が変わっていく世界において、役に立つ情報や知恵も変わっていく。そもそも知恵を生かすほどの体力や気力が残っているのだろうか。

「若いものにはまだまだ負けない」などと言えるのは40代までである。50歳を過ぎたら潔く世代交代すべきだ。次世代リーダーの選択に決して口を挟まず、条件も出さず、余計な教えなどは残さず、ただ潔く身を引いていく。それが会社のため、国家のため、人類のため、そして自分自身のためなのである。

 

この著者の他の記事を見る


尚、同日配信のメールマガジンでは、コラムと同じテーマで、より安田の人柄がにじみ出たエッセイ「ところで話は変わりますが…」と、
ミニコラム「本日の境目」を配信しています。安田佳生メールマガジンは、以下よりご登録ください。全て無料でご覧いただけます。
※今すぐ続きを読みたい方は、メールアドレスコラムタイトルをお送りください。
宛先:info●brand-farmers.jp (●を@にご変更ください。)

 

感想・著者への質問はこちらから