人間交換日記 12通目「誰にも役割の自由と可能性があるからこそ」大野

人間交換日記

「すべての人は、すごい可能性を秘めている」と信じる大野と、「多くの人は目的などなくただ存在しているだけ」と断ずる安田。人間の本質とは何か。人は何のために生きているのか。300文字限定の交換日記による言論バトル。


12通目/大野からの返信
「誰にも役割の自由と可能性があるからこそ」

そもそも僕たちはどうしてこんなにも、自分のことも含めて直ぐにレッテルを貼りたがるのでしょうか?自分はこうだ。あの人はこうだ。仕事はこうだ、人生はこうだ。その理由は、それ以上その事柄に関して考えないで済むからです、きっと。そして、そのままの姿勢では、学習すればするほど下手をしたらレッテルの数が増えるだけ。

で、質問に応えると、安田さんの言う役割(僕の言う役割とは異なる)が決まっているから与えられる楽器が異なるのではなく、誰にも役割の自由と可能性があるからこそ、与えられた楽器と自己とを区別し、自分と向き合い、時に自分を超えようと生きていけるのではないでしょうか。

前回11通目/安田「なぜ楽器は異なるのか」

大野さんへ
自分とは単なる入れ物(楽器)に過ぎない。すべては扱う自己によって決まる。その考えに私も賛同します。同じ楽器でも別の人が奏でれば全く違う音が出ますから。では私からも質問です。その与えられた器(楽器)はなぜこれほどまでに違うのでしょうか。ゴージャスなグランドピアノで生まれた人もいれば、カスタネットで生まれた人もいる。いくら使い手次第とはいえ、カスタネットでピアノの音を出すことは不可能です。なぜこんなにも違うのか。それはやはり役割が違うからではないでしょうか。つまり(ある程度の幅こそあれ)役割は決まっているということ。車椅子のコーチには車椅子という縛りがあり、それゆえに自分の役割が明確になる。

ー安田佳生より

 

前々回10通目/大野「そもそもそこに自己は無い」

安田さんへ

僕の名前は、生まれは、星座は、干支は、身長は、顔は、血液型は、大学は、性格は、趣味は、住まいは、仕事は、…これらをどんなに言葉を尽せたとしても、自己には一向に成りません。結論から言うと、そこに自己は無い。喩えるなら、与えられた楽器でしかない。一般的に多くが自己と捉えられている全ては僕からすると自己ではない。僕が言うには、与えられたそれらの楽器を使い何をどの様に奏でるか?そこにのみ自己が在る。だから、私は運動神経云々とか音痴云々…そもそも自己じゃない。与えられる楽器は選べない。でもどう奏でるか?は自由だ。事実、誰とは決して名指しできないが音痴な歌手も、車椅子のサッカーコーチも存在している。

ー大野より

 

これまでのやり取り

交換日記をする二人



火曜日
安田佳生(やすだ よしお)

1965年生まれ、大阪府出身。
2011年に40億円の負債を抱えて株式会社ワイキューブを民事再生。自己破産。1年間の放浪生活の後、境目研究家を名乗り社会復帰。

●金曜日
大野栄一(おおの えいいち)
株式会社一番大切なこと 代表取締役
http://ichibantaisetsunakoto.com/
https://www.sugoikaigi.jp/coach/eiichiono/

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