【連載第32回】これからの採用が学べる小説『HR』:第4話(SCENE: 048〜049)

 


 SCENE:049


 

 

外堀通りを進むタクシーは、ほんの五、六分で俺たちを新橋駅へと運んだ。「SL広場」として有名な日比谷口。その真ん前で高橋は車を止め、金を払うと、また何も言わずにカツカツとハイヒールを鳴らして歩いていく。

「あの……どこ行くんですか」

「ここ」

振り返った高橋が、指差す。そこは新橋ならどこにでもあるような、薄汚れた雑居ビルだった。入り口脇に十個ほどの看板が出ているが、それらが何の店なのかはよくわからない。間違っても一見で入ろうとは思わないだろう。

俺の返事を待たず高橋は奥へと入っていく。慌ててそれを追うと、細い廊下の先に、古いエレベーターがあった。BAND JAPANのあったあの六本木のビルや、AA本社にある最新鋭のエレベーターとはまるで違う、広さ半帖ほどの箱。そこに、まるで芸能人のような高橋が躊躇なく入っていく。

俺はだんだんと不安になってきた。よく考えずついてきてしまったが、俺は騙されているんじゃないだろうか。ついていった先にはおっかない人たちが大勢いて、何十万・何百万の契約書に無理やり拇印を押させられるのではないか。

中途半端に入れたアルコールが、陽ではなく陰に作用する。馬鹿げたことだとわかってはいる。だが、高橋が何のために俺をこんな雑居ビルに連れてきたのかはわからない。

液晶の中、角ばった数字が増えていき、やがて7階で止まる。

チン、と音がして、扉が開いた。

「あっ……」

俺は思わず言った。そこに見えたのは、想像とはまるで違った風景だったからだ。

落ち着いたバー。

木目調の内装、微かに聞こえる音量で流れているゆったりしたジャズ、そして、エレベーター正面にあるカウンターの中で、ほとんど無表情に近い薄い笑みを浮かべている正装のバーテンダーが二人。

「いらっしゃいませ」

そのうちの一人が言い、頭を下げる。

「カウンターで。シャンパンを2つ。それから……」

席につきながら、手書きのメニューに目を落とす。

「あ、これこれ。いちじくのレーズンバター添え」

「かしこまりました」

カウンターの下にある荷物置きにカバンを置き、高橋の隣に腰を下ろす。

三十秒と立たずに、ピンク色の発泡酒が、どう見ても高そうな細いグラスに入って置かれた。

「じゃ、お疲れ」

「……お疲れ様です」

よくわからないまま乾杯をし、一口飲んだ。

「で、どんな話をしたわけ?」

「え……ああ」

正木のことか、とすぐに思いつく。だが、その前に確かめなければならないことがある。

「高橋さん、どうして僕をつけたりしたんですか」

「は?」

「いや、だって、偶然なわけないじゃないですか。それに……俺が正木さんと会ってたことを知ってたでしょ。つまり、あの店に入る前から俺の行動を見てたってことだ」

そうに違いなかった。だが、高橋はこともなげに言う。

「失礼ね。私の行き先に、あんたがいただけよ。それも、ただいただけじゃない、私たちのターゲットを連れ去った」

「え……ターゲットって……正木さんのことですか?」

俺たちの前にドライいちじくが置かれた。真っ赤なマニュキュアの塗られた高橋の指がそれに伸びる。

「ま、正確に言うなら私の担当は彼じゃなかったんだけど。……まあそれはいいわ。とにかく私は私の思惑のもと六本木のあのオフィスビルに向かった。そしたら、一階のカフェでキョロキョロしている僕ちゃんを見つけた。外からしばらく見てたら、僕ちゃんは何かを見つけて、慌てて立ち上がって店を出ていった」

……あのビルのスタバで張っていたときだ。そして、エレベーターから降りてきた正木を見つけると、俺はその後を追った。俺は横目で、いじじくを頬張る高橋を見る。

「とにかく、その時点で私たちの計画は狂った」

「……計画?」

ターゲットとか計画とか一体何の話だ。

「でも、まあ、せっかくやる気になった新人君を止めるのも忍びないじゃない?」

「それで俺をつけたんですか」

「あんた、しつこいわね。別にそんなことはどうでもいいのよ。だいたいあんたこそ、何をどうするつもりで彼を追ったわけ?」

「それは……」

それを言われると困る。俺にもよくわからないのだ。そして俺はもう、その問に自分で答えをだすことを半ば諦めていた。

俺は正直に話した。

具体的な計画などないまま正木をつけたこと。途中で正木に気づかれて、咄嗟に近くにあったあの店に誘ったこと。そして、正木自身は今の境遇を「甘くはない」と認識しつつも、自分のような人間が高木生命のような大きな企業に拾ってもらって「幸運」だったと考えていること。

「彼はなんというか、彼なりのロジックで今の状況を受け入れていると感じました」

黙って聞いていた高橋は、三分の一ほど残っていたシャンパンをくいと飲み干す。

「おかわり」

差し出すグラスをバーテンが受け取り、「かしこまりました」と頭を下げる。

「何よ、彼なりのロジックって」

「……オフィスで話したでしょう。野球の話。彼が怪我をしたことでチームが負けて、それ以降のリーグ戦にも参加できなくなったって」

「ああ、そうだったわね」

高橋は電子タバコを咥える。すぐに、昼間とはどこか違う、甘い香りが漂い始める。

「ネットに書かれてたあの情報、自殺未遂がどうのって話がもし事実とした場合、彼が安定や保身を一番に考えるのも無理はないと思いました。……実際彼はいま、BAND JAPANの正社員なんだ。年収も高いし、BAND JAPANの後ろ盾である高木生命の社長からも期待されるような存在です。そう考えれば、彼の言っていることも一理あると言うか」

「それであんたは、言われるがままを受け入れたってわけ?」

ふうっと煙を吐きながら高橋が言い、俺は思わずカッとなってそちらを見る。

「じゃあ、高橋さんならどうするんですか。だいたい、誰がどんな職場で働こうが勝手じゃないですか。しかも、本人はそれでいいと言ってる。むしろ、自分は恵まれてるって認識なんですよ? 洗脳だなんだって言いますけど、それを外野がどうこう言う権利はないんじゃないですか?」

俺の剣幕を制するように、お待たせしました、とバーテンがグラスを高橋の前に置く。高橋は小さく「ありがと」と言い、それをゆっくり一口飲む。それから少し大きめのため息をついた。

「鬼頭はさ」

「……はい?」

突然出てきた名前に、俺は素っ頓狂な声を出してしまった。だが高橋はおかまいなしに話を続ける。

「あいつは、入社当時から目立ってたのよね。ああ見えて要領がいいし、頭の回転も早い。商品のこと、施策のこと、上へのアピール方法。誰よりも早くそれを理解して、実践していったわ。結果、あいつは売れた」

「……聞いたことあります」

そうだ。今でこそ“変人”扱いされる鬼頭部長だが、かつてはとんでもない売上目標を毎週達成していたスーパー営業マンだったと聞いている。

「AAのような営業主体の会社にとっては、売上をあげる奴が正義よね。自然、鬼頭はどんどん出世した。リーダーになり、マネージャーになり、統括マネージャーになり、そして部長、そして今では取締役」

「まあ……実際すごいですよね。羨ましい」

本心から言った。あの人個人に対して明確な憧れを抱いているわけではないが、営業マンとしてこれ以上ないような理想的なキャリアだとは思う。しっかり結果を出し、それが認められ、相応のポジションや給与を勝ち取ったのだ。

だが高橋は、「そうかしら?」と言ってタバコを吸う。

「周りがどう思っているかは別として、あいつ自身は今、大きな壁にぶち当たってると感じてるはずよ」

「壁?」

「だからこそ、取締役になった途端、HR特別室なんておかしな部署を作った。そしてそこに、私みたいな跳ねっ返りを配属させた。私だけじゃないわ、保科にしろ室長にしろ、それまでいた部署では変人扱いされる“異端児“よ」

そうだったのか。やはりHR特別室は鬼頭部長が作った部署だったのだ。そして、メンバーを選んだのも。

だが、それならさらに謎は深まる。

「どうして、そんな部署を作ったんです。それに、“壁”って、一体何なんですか」

俺が言うと、高橋はなぜか嬉しそうに目を細め、紅い唇の端から甘い香りの煙を吐く。

「それをわかってほしくて、あんたを送り込んだんじゃないの?」

「……え?」

「この一週間あんたを見てて、なんとなくわかったわ。多分あのバカは、あんたならその壁の本質を見極められるんじゃないかって期待したんじゃないの」

「期待……俺に、ですか」

それは違う、と俺は頭の中で反論する。俺はM社の一件で鬼頭部長を怒らせた。その罰としてこのおかしな部署で研修を受けることになったのだ。……確かに研修を言い渡されたのはM社のキャンセルが発生する前だったが、それでも、電話で話した鬼頭部長が怒っていたのは間違いない。

「まあ、期待と言っても、別に営業力云々の話じゃないわ。私たちがこれからぶつかっていく壁は、小手先のテクニックで乗り越えられるようなものじゃない」

「……」

「そんな中で鬼頭はさ、あんたのその、なんていうの、すれてるようで意外とナイーブな所? 冷めてるようでいて、意外と人の感情を無視できない所? わかんないけど、そこに何かを期待したのよ」

「……なんですか、それ」

褒められているのかけなされているのか、漠然とした話でよくわからない。そもそもこれは一体、何の話なんだ。

俺は咳払いをして、言った。

「とにかく話を戻しましょうよ。高橋さんはこの案件をどうするつもりなんですか」

俺の言葉に高橋は「さあねえ」と呑気な返事をよこす。

「どうするかはまだ決まってないわ。その答えは多分、もうすぐここにやって来る」

「はい?」

俺が言った時、背後からチン、という音がして、エレベーターが到着した。

SCENE:050につづく)

 


 

著者情報

児玉 達郎|Tatsuro Kodama

ROU KODAMAこと児玉達郎。愛知県出身。2004年、リクルート系の広告代理店に入社し、主に求人広告の制作マンとしてキャリアをスタート。デザイナーはデザイン専門、ライターはライティング専門、という「分業制」が当たり前の広告業界の中、取材・撮影・企画・デザイン・ライティングまですべて一人で行うという特殊な環境で10数年勤務。求人広告をメインに、Webサイト、パンフレット、名刺、ロゴデザインなど幅広いクリエイティブを担当する。2017年フリーランス『Rou’s』としての活動を開始(サイト)。企業サイトデザイン、採用コンサルティング、飲食店メニューデザイン、Webエントリ執筆などに節操なく首を突っ込み、「パンチのきいた新人」(安田佳生さん談)としてBFIにも参画。以降は事業ネーミングやブランディング、オウンドメディア構築などにも積極的に関わるように。酒好き、音楽好き、極真空手茶帯。サイケデリックトランスDJ KOTONOHA、インディーズ小説家 児玉郎/ROU KODAMAとしても活動中(2016年、『輪廻の月』で横溝正史ミステリ大賞最終審査ノミネート)。

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