人間という入れ物

生まれたばかりの現代人の赤ん坊を石器時代の人間に育てさせたらどうなるだろう。当然のことながら言葉は話せない。足し算も引き算もできない。どんなに元の知能が高くても現代人とは程遠い存在となるだろう。ではこの反対はどうだろう。石器時代の赤ん坊を現代に連れてきて育てたら。

現代人と同じになるとは言わないないが、もしかしたら言葉を話すかもしれない。足し算や引き算くらい出来るようになるかもしれない。つまり石器人が育てた現代人の赤ん坊より、現代人が育てた石器人の赤ん坊の方が、現代的パフォーマンスは高いということ。このような逆転現象は身近なところでも起こる。

たとえば水泳のオリンピック選手同士が結婚して生まれた子供。幼い頃から水泳を習わせたらかなりの選手になりそうである。ではこの子に20歳まで水に触れさせず、いきなりプールに放り込んだらどうなるだろう。おそらく溺れてしまう。どんなに才能があってもスキルと知識がないと人は泳げないのだ。

つまり人間の本質は入れ物なのである。許容範囲がめちゃくちゃ大きな空っぽの入れ物。ここに何を入れるかで人は何者になるかが決まる。素質も環境も大きな要素ではあるが、より重要なのは入れ物に何を入れるか。同じ環境で育っても全く違う人生になるのはなぜか。それは入れたものが違うから。

環境とは中に入れるものを変える要因ではある。だが全てではない。素晴らしい環境で育ってもつまらないものを入れればつまらない人間になる。劣悪な環境で育っても素晴らしいものを入れれば素晴らしい人間になる。では何を持って素晴らしい中身だと判断すればいいのか。それは素質によって変わりそうだ。

才能とは入れた中身と器との相性なのだと思う。この器には何を入れるべきなのか。ここを見極めなくてはいけない。もちろん誰にとっても必要な要素はあるだろう。たとえば愛情や基礎言語。算数のスキルや歴史の知識も必要かもしれない。だが99%は人によって異なるということを忘れてはいけない。

何をやってもうまくいかないとき、人は「自分には素質がない」「育った環境が悪い」と考えてしまう。だが問題の本質はそこではない。本質は入れ物の中身なのだ。何かを変えたいと思うなら入っているものをまず出すこと。人間とは大きな入れ物に過ぎない。出せばいくらでも新たな未来が入ってくる。

 

 

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