記憶にアプローチせよ

赤ん坊の時に人の子と取り違えられた。
後にその事実が分かり「親子関係が
崩壊する」という映画がある。
「自分だったら」と考えると複雑な心境になってしまう。
一緒に暮らしている子供に向かって「君は他人だ」
と言えるだろうか。

DNAは他人であるという事実。
しかし心はそれを認めないだろう。
事実は心を越えられないのである。
人間なら当たり前のことなのだが
ビジネスに関しては心を軽視する人が多い。

こういうエビデンスがあります。
ゆえにこれは良い商品です。
あなたに必要な商品です。
このような売り方はその典型だ。

私はエビデンスという言葉があまり好きではない。
だが事実には抗えないことも確かだ。
親子関係も同じ。病院で「あなたの子供です」と
手渡されることによって親子関係はスタートする。

もし渡された5秒後に「すみません
間違えました」と言われたらどうだろう。
モヤモヤした気持ちは残るだろうが「絶対にこの子は
渡さない」とはならないだろう。

では「間違えました」が5年後ならどうか。
事実としては同じだが、
心がその事実を受け入れられないだろう。
「愛おしい」「代わりが効かない」「唯一無二」「特別な
存在」になってしまっているから。

これらを作り出しているのは
エビデンスではなく記憶なのだ。
もし顧客にとっての特別な存在でいたいなら、
顧客の記憶にアプローチしなくてはならない。

私はどんな人間なのか。
何ができて何ができないのか。
なぜこの仕事をやっているのか。
どういう人の役に立ちたいのか。

マイナス情報も含めた自己開示。
ここにたどり着くまでの人生ストーリー。
その物語が「ある記憶を持つ人」との間に
特別な関係性をつくり出す。

安い、早い、便利など、
数値的に実証できるエビデンスは万人に受ける。
だが記憶は人によって違うから万人に
受けることは不可能だ。だからこそ共感を生む。
共感を生みだすのは記憶の交錯なのだ。

公園にたくさんいる子供たちの中で
自分の子供はなぜ特別なのか。
足が早いからではない。頭がいいからでもない。
そして血が繋がっているからでもない。
その子が特別なのは
その子と私との間に記憶の交錯があるからだ。

もし、どちらかが記憶喪失になったら、
悲しいかなそれまでの親子関係は終わる。
関係性を作り出しているのは事実ではなく記憶なのだ。
「楽しかったこと」「辛かったこと」を含めた
記憶という情報。それが私の心を
形づくっているものの正体なのである。

 

この著者の他の記事を見る


尚、同日配信のメールマガジンでは、コラムと同じテーマで、より安田の人柄がにじみ出たエッセイ「ところで話は変わりますが…」と、
ミニコラム「本日の境目」を配信しています。安田佳生メールマガジンは、以下よりご登録ください。全て無料でご覧いただけます。
※今すぐ続きを読みたい方は、メールアドレスコラムタイトルをお送りください。
宛先:info●brand-farmers.jp (●を@にご変更ください。)

 

感想・著者への質問はこちらから